2021-03-23 第204回国会 参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第3号
沖縄が何よりも優位性があるのは、やっぱり地政学的な優位性というのが一番沖縄という立地にあると思いますし、歴史的に、琉球王朝の時代からいわゆる中継貿易国家であったということを考えたときに、やっぱり物の流れのハブ機能をどう持たせるのかということが一つ大きなテーマになると思っておるんです。
沖縄が何よりも優位性があるのは、やっぱり地政学的な優位性というのが一番沖縄という立地にあると思いますし、歴史的に、琉球王朝の時代からいわゆる中継貿易国家であったということを考えたときに、やっぱり物の流れのハブ機能をどう持たせるのかということが一つ大きなテーマになると思っておるんです。
ですから、今回のアグーにつきましても、琉球王朝のときからずっと伝統があって、沖縄での大規模な陸上戦闘のもとでほとんど死滅してしまった。その後、沖縄の県民の方々が懸命な御努力のもとに復活をさせて、それでまたこういう事態が起こったということでありますので、久米島の方に今移動が始まっています。第一陣が移動、終わったのかな、移動して、第二陣がもうすぐ出発すると思います。
その中に食文化は当然入っているわけでありまして、アグーは、琉球王朝に起源を発して、大変な沖縄戦を経験されて、そのときにほとんどのものが死滅に近い状況まで追い込まれたものを、戦後、大変な御努力によって復活をされた、その先人の御努力は本当に尊敬に値するものですし、それについては我々は尊重しなければならないと思います。
琉球王朝時代の首里城は、その役割から大きく三つの空間で構成されておりまして、政治、行政の空間、生活、儀礼の空間に加え、祭祀の空間がございました。祭祀の空間につきましては、京の内や首里森御嶽の復元を行ったところでございまして、これらの施設については、今回、幸いにも火災の被害を免れたところでございます。
私は、琉球王朝の歴史に詳しい専門家のお話も伺ってきました。そういうことも踏まえて、きょう、幾つかの提案も含めて質問を行いたいと思います。 首里城は、日本的な建築と中国の建築が融合し、沖縄的な要素が加わっている、木造建築物としては世界で唯一無二のお城だ、このように専門家は評価しております。地元紙にも載っておりました。
○赤嶺委員 県民のそういうたどってきた、まあ琉球王朝文化もありますが、戦後復興のシンボルという歴史的な思い、そういう感情を政府が敬意を払うということが、この再建事業に当たって極めて大事だと思います。 それで、再建に当たってなんですが、九二年の復元時の実績に基づいて取り組むから、八〇年代復元に取り組んだときよりは早くできるだろうといういろいろな意見が出ているわけです。
○衛藤国務大臣 首里城は沖縄にとって極めて重要なシンボルでありまして、今お話しございましたように、まさに、琉球王朝が始まってから、首里に人が置かれ、そしてその中で頑張ってきた。その間に三度ほど焼失しましたが、そのたびごとに再建をしながら来たところでございまして、そういう意味では、まさに沖縄の文化、歴史、伝統を凝集したものだというぐあいに思っています。
沖縄の方々、県民の皆さん方のためにはもちろんでございますけれども、琉球王朝の存在をしっかりとやはり知らしめるために、また、地方創生や地域の活性化のためにも、国が強力に支援をして、一日も早い再建を果たすべきであると考えております。 安倍総理にその決意をお伺いをいたしたいと思います。
首里城は琉球王朝の王府であり、当時の政治、外交、文化の拠点であります。首里城は、まさにウチナーンチュの魂、マブイそのものです。河野大臣を始め、政府関係者、委員長及び各委員におかれましては、首里城再建のためにお力をかしてくださるようお願いを申し上げます。 そこで、河野大臣に尋ねます。
さて、この大臣がまたお好みの泡盛、これについて少し話しさせていただきますけれど、泡盛の歴史は古くて、琉球王朝時代から作られておって、いろんな変遷が時代とともにあって、原料も変わってきたんです。
沖縄県にとって豆腐ようは、名産品という表現にとどまるものではなく、琉球王朝時代から継承されている歴史と文化の結晶であり、今回の表現は沖縄そのものをやゆするものです。沖縄の県民感情やまた原発事故で被災された方々の気持ちを考えれば、到底受け入れることのできない表現が教科書に引用されたことにとても衝撃を受けました。
私自身も、実は、沖縄では琉球王朝絵巻といって、中国の冊封体制だったときに、冊封使が首里城に来たときに、王様に認めるよというふうにやった絵巻の行列儀式というのを復元したものがありまして、私も初めて参加したのは二十年前ぐらいになりますけれども、そんなものに参加して、中国から来た役人さんの格好をして行列を歩いたりみたいなことをしています。
沖縄県をそこからつくった、つまりは琉球王朝はここで途絶えてしまった、こういう歴史があるわけです。ほかの地域にはなかなかないような歴史を沖縄は背負っているんです。まずこれが一点。 そして、太平洋戦争の最末期、あの沖縄決戦が行われました。我が国のいわゆる国内で、日本の国内で行われた最初の防衛戦でした。本当に悲惨な戦争でした。二十万以上の方が命を落とされた。
それならば、琉球王朝時代にやったデルタ貿易、三角貿易というんですが、清の国、コリア、大和、琉球と、これを結んだ交易で繁栄した時代があるわけですが、あれの再現し得る状況になってきたと思うんです。 それで、お配りした資料をちょっと見ていただきたいんですが、カラーで二枚の資料です。この一枚目に、赤い色の棒グラフと水色の棒グラフ、あるいは黄色の線グラフと緑の線グラフ。水色は米軍関係収入です。
さて、先ほども言いましたが、沖縄県が古く琉球王朝を形成していた頃、劣化した森林資源の回復を図るため、王府の派遣した山師や山工人、きこりと同義でありましょう、山工人というのは山の耕作人、山師は山師です、が、そま山の伐採などの管理に当たり、その保護、育成を図ってまいりました。
尖閣諸島のこの久場島、大正島は、日米地位協定で米軍の射爆撃場として管理下が米軍にあるんですけれども、その名称が赤尾嶼、黄尾嶼という琉球王朝の時代に使っていた、現在中国が使っている名称になっているので、名称を変えようじゃないですかという話をしました。防衛大臣にも外務大臣にも非常に前向きな御答弁をいただいたんだと思いますけれども、これ今後ちょっと検討していただけるという回答でよろしいですね。
本日は、琉球王朝以来、沖縄にはすばらしい伝統工芸、織物があるということをアピールするために、あえて、うらそえ織のかりゆしウエアをつけて登場しました。 さて、野田総理、八月十八日、県都那覇市の住宅街において、在沖米海兵隊員による女性に対する強制わいせつ致傷事件が発生しました。
これ、歴史をちょっと外務省もよく勉強していただきたいんですけど、元々は、この赤尾嶼、黄尾嶼というのは琉球王朝が使っていた名称なんだそうですよ。それで、それをそのまま帝国軍も使っていたということなんですが、実はこの名称が、一九七〇年以降、中国それから台湾がその領有権を主張し始めたきっかけになる物すごく大きな、キーとなる名称なんです。 資料の②をちょっと御覧いただきたいと思うんです。
沖縄のこれまで有してきた歴史、特に琉球王朝のときの歴史等々を考えたときに、さまざまな主張があるということは私は理解をしていますし、独自のいわば伝統文化というものを形成してきた、育んできた、そのことについても私は理解をしているつもりでありますし、沖縄に私がお邪魔をする際は、できる限りそういったことも、その都度その都度、さらに深く理解をするための行動というかアクションというか、勉強もさせていただいたりしています
十三世紀の鎌倉時代に琉球王朝が成立しています。この琉球王朝は、天皇の支配下にあるわけでもなく、鎌倉幕府、室町幕府の支配下にもございませんでした。一六〇九年に薩摩藩によって武力征服され、一八七九年の琉球処分ともいうべき廃藩置県によって琉球王朝、琉球藩は消滅します。 琉球、沖縄は、天皇制から見ますと、おくれてきた臣民であり、化外の民であり、天皇の支配に属さない、服従しない、まつろわぬ民でありました。
そして、今言われていましたように、自然的な、海を含めた自然の美しさ、歴史、琉球王朝を含めた歴史、文化、音楽、食べ物、いろんな部分、それから人のもてなしを含めて、非常に特徴がある国内トップクラスの観光地であることはもう言うまでもありませんが、先般も伺いましたら、観光客の中でやっぱり修学旅行生が多いと、これは勉強するためということではいいんだけれども、ビジネス的にはそうお金にならないと。
この間の琉球王朝、そして橋渡しを様々な国と行ってきた、貿易を行ってきたという歴史、そして住民の四人に一人が亡くなられた、犠牲になった地上戦。私も様々な書物も読みました、この間、そして、琉球王朝に関してもですね。あるいは博物館などにも参りました。糸数ごうにも参りました。あの凄惨な歴史というのを自分なりに精いっぱい理解しようと思って努めているところでございます。